株式会社石井鉄工所
社長 石井宗太郎氏
私が四島一二三様のお名前を知ったのは四十数年前のことです。アメリカから帰国されて後、私の生家の近くの伊崎に居住されていた私の二十四、五歳の頃のことです。
満州事変にはじまり、戦死者が出るたびごとに誰彼の別なく弔慰の花輪が送られるのです。近所の人達はアメリカから帰られた、お金持ちの人だそうなということでしたが、それだけではなく、ご夫婦お揃いで英霊にお参りされた遺族をお慰め下さるのです。
四島様とは存じ上げない頃のことでしたが、何とご立派なお方だろうと心から敬服しておりました。
私が、一二三翁を、朝早くお訪ねしたのは、昭和十二年十一月頃でした。四島さんは朝の一番電車で会社へ出られる。早朝なら会ってもらえるというので、渡辺鉄工所へ出勤の前に会社へおしかけたのです。
伊崎浦ですと言っても、ああ、そうですかと、そっけない。私も若いし、一途でしたから、週に二、三回、のべ四、五十回通って、一二三社長に融資して下さいとお頼みしたのです。
私の父は漁師でしたが、船の手違いで高利の金を借りて、四苦八苦でした。私は渡辺鉄工所へ勤めていましたが、よく働きましたし、残業もする。給料はそのままおふくろに渡しましたが、それはそのまま返済に消えるんです。
なんとかして独立して、金を返し両親を楽にしてやりたい。そればかり考えていました。
ありがたいことに、そのころ同じ伊崎浦に、福岡無尽の社長さんがいなさることを知りました。人に優しいし、アメリカで成功して男気のある人といううわさでした。
私はこの方を頼ろうと決めたのです。それからは、ひたすらでした。当時、二十七歳でしたが、若さは無鉄砲な事ができるんですね。
四カ月通って、社長さんが根負けされたか、保証人か担保がありますかと言われる。そんなものある筈がない。あなた、保証人も担保もない人に金融機関は融資できませんよとおっしゃる。当然ですよね。
で、私の生命が担保ですと言いました。社長さんは、生命が担保?どうして、と言われる。
私は生命保険に入って、受取人を貴方の会社にします。一生懸命働くから必ず払えるし、もし途中で死んでも保険で返せる。必ず返しますよ。私の真剣さに、社長さんは、ほう…、と何か感じられたようでした。
そして、よく「石橋を叩いて渡る」というが、貴方は石橋を叩きますかといわれる。私は即座に叩きませんと申しました。社長さんが、なぜと言われる。石橋かどうかを見きわめる事が肝心なので、石橋と見きわめたら叩いたりしません。すぐ渡りますよと申しました。
この言葉が社長さんにとても気に入られたんですね。わかりました、貸してあげましょう。工場用地も探してあげよう。どの位いるのと言われました。工場が三十坪で、五十坪あれば…。五十坪ねえ、と言われました。
しばらくして、土地が見つかったからおいでなさいと電話です。わくわくしてうかがいますと、工場なら将来を見こして二百坪はいるやろう。いい土地を見つけたから見にいってきなさいといわれました。それが今、私が住んでいる土地なんです。広すぎてびっくりでしたが、申し分ありません。お願いしますと申しますと、じゃあ一切まかせなさいとおっしゃった。
何日かして、貸付係の井上さんという人から電話があって、実印もって田中代書人へ行って登記してきなさいと言われる。実印だけは、融資を受けるときいるだろうと用意していたんです。
こうして手続きが終わって、会社に顔を出すと、井上さんが、あなた登記料払ったかといわれる。実印をもってこいと言われたからその通りにしたというとあきれて、社長さんに聞いてみなさいと言われる。
社長さんにその通り言いましたよ。何もかもお見通しで、ニャッと笑って、私がいいと言ったと言っときなさい、でした。
井上さんから、登記料まで出さしたのは貴方だけばいと言われました。私も本当に生命がけで、顔は笑っていたが心は泣きよったですよ。
それから一年ちょっとでこれまでの高利の金を返し、時代もよかったですが、七年たたぬうちに従業員百人ぐらいの工場になりましたよ。
機械を買うとき、御相談すると、メーカーの良い機械はすぐOK。どうかと思うところは、すぐ、やめときなさいでしたな、旋盤を買うときも大隈鉄工所のというと、ああそれはいい、買いなさいでしたな。
工具店も信用でしたが、お金が入るとすぐに返しにいった。入ったからと返しにくるのは貴方だけばいと信用され、ゆっくりでいいよ、と言われたりしました。四島社長さんに恥ずかしい事はできんと思いこんでいましたからね。
一二三翁はカンのすぐれた人でしたな。戦後ですが、高周波電波をつかって焼き入れ加工をする機械を入れようと融資のお願いにいきました。それはなになと言われる。北九州に二社あるだけ、福岡にもない。充分成算あると申しあげると、「よかろうな。ところでこれは石橋な」と言われる。最初の話を覚えてあったんです。
大丈夫の石橋です、と申しますと、そうなと言って秘書のお嬢さんに、博多駅前の支店長さんを呼んで下さいと言われる。社長さんは女の子にも、誰にでも丁寧な応対で、必ず“さん”づけでしたね。
「博多駅前の支店長さんですか。ここに石井さんが見えて、新しい仕事に二千万円いると言っておられます。お宅の担当だから出しとって下さい」。
私は今でも、社長さんみたいに丁寧な言葉は使いきらない。入社早々の人にも、みんな“さん”づけですからね。
よくお宅にお邪魔しましたよ。奥さんが、ぶったところのない実に立派な方で、石井さんどうぞ、とボタ餅なんかよくいただきましたな。
戦後はたいへんでしたから、社長さんに、F銀行での斡旋を頼みました。うちでいいですよと言われる。いいえ、私は貴方を一生の恩人と思っている。もし払えんで差し押さえられたら、恩人の貴方をうらむ事になる。そうなってはならない。だから今度のお金はF銀で借らして下さい…。
社長さんは、そうなと言って、電話をF銀の営業部長さんにかけられました。「石井さんは私からは借らんと言いよるけん、お宅で頼みます。私が保証人になりますよ」社長さんが保証人ならどこでも貸してくれますよね。こうして百万円借りました。
ここまで、可愛がられた人は他にいないんじゃないですか。だから私は、社長さんの誕生日もお命日もちゃんと覚えていますよ。井上常務(当時)が見えたとき、「私は三十八年間、お金の面はもちろんですが、それ以上に人の生きていく道を教えてもらいましたよ」と申しあげました。
私には社長さんは恩人だし、相談相手で、しょっ中うかがってました。社長さんのお顔を見ると気が晴れました。でも、昼休みの一時間だけは、静養しているといって絶対駄目でしたな。
意志の強い方でしたが、反面、周囲の人には優しかったですね。昭和のはじめ頃は電話が少なかったので、どうぞご自由にお使い下さいと家の前に貼り紙してあったし、ご近所の呼び出しまで…。そして家族思いでしたな。
いつか百道のお宅へうかがったとき、何の話からだったか、社長さんが「石井さん、司はえらいよ。あれは私より上手やもんね」と言いなさった。すると横におられた奥さんがね。ウワーッと泣き出された。「奥さん、よかったですね」と私が申しあげると、またウワーッでしたよ。本当にいいご両親でしたね。
茶目っ気もありました。ある日の早暁、車がブーブー鳴らすので出てみると、下水工事の掘りかえしにタクシーがのめりこんで動けないでいる。そこで木ぎれを運んだりいろいろ手伝って、やっと脱出した。
運転手さんが礼のつもりでしょう、百円だした。いらんよというと、とっとけ、とっとけと言ってたち去った。百円もうけたよと、得意そうに話しておられましたよ。
それから霊園に名刺受けをつくられたでしょう。御参りした人に礼状を出されるためでしょうね。
あるとき娘さんが自殺しようと、霊園をぐるぐるしているうちに、たまたま一二三翁の格言墓碑が目に入った、読んでいるうちに、「祖先に対する最高の祭りは道を守り業を励むにあり」。それでやり直そうという気になった。そのことを名刺ボックスにいれておかれた。
一二三翁は、墓が人助けをしたと御満悦で、その娘さんを自分で訪ね、地球儀をおみやげに、頑張んなさいと励ましておられるんです。会社の社長さんが、なかなかこんなことできませんよ。
自分には、格言をつくってきびしかったが、人には強制されないし優しかったですな。しかし芯に、信念を持っておられたから、変な人は近寄らなかったですね。
部屋の壁に、一二三翁の書をかけています。勢いがいい。雄渾な筆ですね。お正月に十枚ぐらい書いたから、いるならあげるよ…と言われていただいたものです。この書を見ながら、一二三翁は、私にとって終生師であり、親であり、恩人だったなと思っています。
― 昭和50年(1975)ごろの話 ―